2015年8月30日日曜日

Cy Twombly 展


今日はCy Twombly 展(原美術館)の最終日。見逃せないと思ってはいたのだが最終日午後の駆け込みになってしまった。入口に列ができていることに驚いた。開催直後から多くの人が訪れ、図録はあっという間に売り切れたらしい。Twomblyのことはほとんど知らなかったが、美術館のホームページを見てにわかに勉強した。今回の展覧会は本邦初の回顧展である。内容は2003年のHermitageでの展示とほぼ同じ(相続の関係で数展少ない)で、最晩年を除く50年の画業紹介になる。

天衣無縫の筆(手)はart brutやautomatismを彷彿とさせ、何とも自由で楽しい。事実、本人は「自分の作品に失敗はない」と言ったそうだ。このように天真爛漫な創作活動を送れるアーティストがどれだけいるだろう。2012年にはTate Liverpoolで"Turner Monet Twombly"という展覧会も開かれた。意外な取り合わせだが、たしかに具象とも抽象ともつかない即興的な作品が3人に共通して見られる。私がTwomblyに強く感じるのは作為を消し去るということだ。作為がなければ自由になれる。感興の赴くまま手の動くまま描く絵は見る者の心をこんなにも軽やかにするのだ。

2015年8月29日土曜日

木村伊兵衛写真賞 40周年記念展




川崎市民ミュージアムで<木村伊兵衛写真賞 40周年記念展>が開催されている。歴代の受賞作品が一堂に会する本記念展は貴重だ。とは言え50人以上の受賞者の作品を鑑賞するにはエネルギーを要する。2時間半かけて見終わった時には憔悴していた。社会性の強いもの、私写真、ファインアート、グラフィックアートまで、これだけ広いジャンルから受賞者を選ぶのが難しいことは想像にかたくない。最終選考会の討論内容を聞いてみたいと思う。個々の作品についてコメントすることはできないが、印象に残ったものに*をつけてみる。

第1回 (1975) 北井一夫「村へ」
第2回 (1976) 平良孝七「パイヌカジ」
第3回 (1977) 藤原新也「逍遙游記」ほか*
第4回 (1978) 石内都「APARTMENT」
第5回 (1979) 岩合光昭「海からの手紙」 倉田精二「ストリート・フォトランダム・東京75~79」
第6回 (1980) 江成常夫「花嫁のアメリカ」
第7回 (1981) 渡辺兼人「既視の街」*
第8回 (1982) 北島敬三「ニューヨーク」
第9回 (1983) 該当者なし
第10回 (1984) 田原桂一「TAHARA KEIICHI 1973~1983」*
第11回 (1985) 三好和義「RAKUEN」「惑星」
第12回 (1986) 和田久士「アメリカン・ハウス─その風土と伝統」
第13回 (1987) 中村征夫「全・東京湾」「海中顔面博覧会」(写真集)
第14回 (1988) 宮本隆司「建築の黙示録」「九龍城砦」*
第15回 (1989) 武田花「眠そうな町」「続・眠そうな町」/星野道夫「Alaska風のような物語」「Alaska北緯63度」
第16回 (1990) 今道子「EAT Recent Works」*
第17回 (1991) 柴田敏雄「日本典型」*
第18回 (1992) 大西みつぐ「遠い夏」/小林のりお「FIRST LIGHT」
第19回 (1993) 豊原康久「Street」*
第20回 (1994) 今森光彦「世界昆虫記」「里山物語」
第21回 (1995) 瀬戸正人「Silent Mode」「Living Room Tokyo 1989-1994」
第22回 (1996) 畠山直哉「LIME WORKS」「都市のマケット」
第23回 (1997) 都築響一「ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行」*
第24回 (1998) ホンマタカシ「TOKYO SUBURBIA 東京郊外」
第25回(1999) 鈴木理策「PILES OF TIME」*
第26回 (2000) 長島有里枝「PASTIME PARADISE」/蜷川実花「Pink Rose Suite」「Sugar and Spice」*/HIROMIX「HIROMIX WORKS」
第27回 (2001) 川内倫子「うたたね」「花火」*/松江泰治「Hysteric 松江泰治」
第28回 (2002) オノデラユキ「cameraChimera カメラキメラ」*/佐内正史「MAP」
第29回 (2003) 澤田知子「Costume」ほか
第30回 (2004) 中野正貴「東京窓景」
第31回 (2005) 鷹野隆大「IN MY ROOM」
第32回 (2006) 本城直季「Small Planet」/梅佳代「うめめ」*
第33回 (2007) 岡田敦「I am」/志賀理江子「Lilly」「CANARY」*
第34回 (2008) 浅田政志「浅田家」
第35回 (2009) 高木こずえ「MID」「GROUND」*
第36回 (2010) 下薗詠子「きずな」*
第37回 (2011) 田附勝「東北」
第38回 (2012) 菊地智子「I and I」/百々新「対岸」
第39回 (2013) 森栄喜「intimacy」
第40回 (2014) 石川竜一「絶景のポリフォニー」/川島小鳥「明星」*

2015年8月20日木曜日

柴田敏雄展




柴田敏雄の作品展が銀座のAKIO NAGASAWA GALLERYで開かれている。これまで柴田の大きな展覧会は東京都写真美術館 (2008)、国立新美術館 (2012)で見ているが、以前より抽象性が弱くなり実景に寄り添うような穏やかさを感じる。柴田の表現は主観を排して客観に徹するものである。モノクロからカラーへの転向もそのためであったが、抽象化の緊張を緩めることもまた必然なのだろう。

柴田は芸大油絵科の出身で、版画やシルクスクリーンを経て最終的に写真を選んだ。セザンヌに憧れて美術の世界に入った柴田の写真はたしかにセザンヌの風景画を思わせる。緻密な画面構成は他に類を見ない。彼を写真家と呼ぶことが適切かどうか自信がないが、最も畏敬する日本の写真家は誰かと問われれば、私は躊躇なく柴田敏雄と答える。

ギャラリー展示は販売を前提としたものだ。恐る恐る価格を聞いてみたが、おおよそ想定内である。展示作品だけでなく作品集にある他の写真も注文可能だ。悩ましい。作品集は小ぶりながら印刷が秀逸だ。煩悩の火種になることを承知の上で一冊購入した。

東京の後はパリで個展が開かれるとのこと。国内より海外で注目されているのかもしれない。私にとって柴田はLewis Boltz, Andreas Gurslyと並んで最も重要な写真作家である。
(敬称略)


If I am told to choose one photographer based in Japan who awes me the most, I will definitely nominate Toshio Shibata. He is as influential to me as Lewis Boltz and Andereas Gursky.

His recent works are now shown at AKIO NAGASA GALLERY in Ginza Tokyo and will be in Paris and some other places in the world.

Some of his previous works are shown at:
http://www.artunlimited.co.jp/en/artists/toshio-shibata.html

If you are interested in Shibata, please refer to an interview article with Marc Feustel.
http://www.marcfeustel.com/eyecurious/?offset=1265814032000&category=Interviews

2015年8月15日土曜日

隣の部屋・日本と韓国の作家たち




国立新美術館で「アーティスト・ファイル 2015 隣の部屋・日本と韓国の作家たち」が開催中だ。非常に面白い。反論を恐れずに言えば、日本と韓国は地理・文化・民族的に近い。そしてその近さ故に違いに驚く。その微妙な距離感がアートという土俵でも興味深いのだ。これまた批判を恐れずに言うと、それは韓流ドラマにハマる感覚なのだ。

この展覧会では特にイム・フンスンの動画とキ・スルギの写真に引き込まれた。情念を抉り出すようなモチーフであるのにあくまで透き通るような清明さを湛えている。これがアートにおける韓流なのだろうか。

イム・フンスンは今年、映画 "Factory Complex"でベネチア・ビエンナーレの「銀獅子賞」を受賞した。韓国人として初めてである。

日本勢にはあまりパワーが感じられず日韓の「競奏」に至っていないのが少々残念であった。






2015年8月9日日曜日

<事物>1970年代の日本の写真と美術を考えるキーワード



<事物>1970年代の日本の写真と美術を考えるキーワード」が国立近代美術館で開催中だ。小さな企画であるが、この潮流を分かりやすくまとめている。私がカメラを持ち始める前のことなので新たに知ったことが多く、新鮮な気持ちで見ることができた。この時代の主な出来事を列挙してみる。

1968 中平、多木、高梨、岡田ら「プロヴォーク 思想のための挑発的資料」創刊
1970 都美術館 東京ビエンナーレ「人間と物質」
1971 パリ青年ビエンナーレ(中平卓馬の出展と撤退)
1972 赤瀬川原平ら「四谷階段」(トマソン第一号)
     森山大道「写真よさようなら」
1973 中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」
     同「ウジェーヌ・アッジェ 都市への視線あるいは都市からの視線」
1974 北井一夫「村へ」
     国立近代美術館 「15人の写真家展」(北井、篠山、高梨、中平、等)
1975 大辻清司「大辻清司の実験室」、高梨豊「町」、篠山紀信「晴れた日」
     須田一政「風姿花伝」
1976 篠山紀信・中平卓馬「決闘写真論」
1977 中平卓馬 昏倒事件

私にとって流れの中心は中平卓馬である。あの言葉の魔力と実生活の劇場性は十分にカリスマティックである。感情移入の強いモノクロから即物的なカラーへの転向は衝撃的であった。ただ、これは多くの写真家がたどる共通経路かもしれない。自分の写真を振り返っても、次元が違うとはいえ「事物」への傾斜が進んでいる。

「アサヒカメラ現代の写真 '76 事物へのまなざし」巻頭言を引用する。「(前略)ではなぜ、事物なのか。日常の中に異常を求めるのではなく、日常そのものを提示する。写真家にとって世界とは事物だ。事物に語らせるものこそ写真である。その写真は記録を超え芸術を超える。(後略)」芸術を超えるとは大仰な物言いではあるが、これが写真の王道であろう。

前回、「<写真>見える物/見えない物」という展覧会・座談会を話題にした。やはり写真は「見える物=事物」を見せるのが本筋だ。そこから見る者が何かを想起すればよい。想起させる力は写真家の思いや意図よりも事物の方が強い。






2015年8月4日火曜日

<写真>見えるもの/見えないもの #02



東京芸大で開催された展覧会「<写真>見えるもの/見えないもの #02」を見た。芸大出身の写真家としては柴田敏雄と佐藤時啓の作品に惹かれていたが、それぞれ油絵科と彫刻科の出身である。東京芸大には写真科がないため、写真は先端芸術表現科の分野になる。今回のイベントは先端芸術表現科で教鞭をとる佐藤時啓が中心となった活動で、1980年代から数年おきに開催されてきた。「写真、見えるもの/見えないもの」というテーマは前回の2007年と同じものである。この8年間の写真のデジタル化を踏まえ、もう一度考え直す時期に来たという認識で企画したとのことだ。

「見えるもの/見えないもの」を写真で問題にすることは写真表現の核心に迫るものだ。見えないものを表現するために写真を選ぶ者は少ない。しかし、そこに見えないものを写真によって想起させることは可能だ。あくまで見えるものを見せる写真なのか、見えないものを見せようとする写真なのか、その差は大きい。まったく方向の異なるアプローチと言えよう。

今回の展覧会は13人の作家によるグループ展である。年齢、経験、バックグラウンドの大きく異なる人たちであり、「見えるもの/見えないもの」への踏み込み方に少なからず温度差があるようだ。作家12人によるシンポジウム(司会:飯沢耕太郎)は面白い趣向で、作家本人から作品への思い入れや裏話を聞くと作品の見方も変わってくる。いかんせん作家の数が多いので、作家と作品の紹介で終始し、テーマについての討論がなかったのは残念であった。

シンポジウムの話題として「デジタルと銀塩のどちらを使うか」があった。出展者の大半は中判以上のフィルムを使用しているが、印画紙が入手困難になって徐々にデジタルあるいはハイブリッドへの移行を余儀なくされているようだ。若い作家にフィルムへのこだわりが強いことは意外であったが、デジタル時代に写真を始めた人はフィルムに特別な価値を見出すのかもしれない。中判以上のデジタルカメラが高価すぎるという事情もあるようだ。

個人的にはOsamu James Nakagawaの漆黒のレリーフ(これはもはや写真とは呼べない)と今義典のユーモラスな作品が印象に残った。(敬称略)